まずは新型コロナウイルスのために命を落とされた方々のご冥福をお祈りするとともに、前線の医療従事者や、さまざまなインフラを支えている人たちの奮闘に深く頭を下げたいと思います。

 本稿はサイエンスでもなく文章のことでもなく、写経するような気持ちで書いています。


 Twitterのタイムライン(TL)はコロナウイルスの話題(フェイクらしきものや愚痴、悪口その他も含む)で満たされ、私自身はしばらくTwitterを休んでいるところです。  精神的に追い詰められ過ぎないために、受け止める情報を最小限にしている一方で、違う自分が悩みます。当プロジェクトの掲げるミッションは、文章で科学の発展に少しでも貢献することであり、科学コミュニケーションの一端を担っているという自負があるのなら、少し関連することを何か書かなければ!と。SNSも含めた世間の傾向からは、コロナと関係ないことを書くと、なんだか場違いなようで心配にもなります。  しかし、変な焦りだけを動機に書く文章に、何の意味もありません。皆様の時間を無駄にするだけなので、ここは心静かにありたいと思います。少し前に自宅の本棚を眺めていて何となく手に取った「三国志」(吉川英治版・講談社)第六巻の巻末に、「太刀の雪」という北方謙三氏による寄稿を見つけました。読んでいたら森閑とした気持ちになったので、以下にそのまま書き写します。  大学の卒業式・入学式が延期されるなど、皆様の勤務先でもさまざまな影響が出ていると思います。皆様に少しでも静寂が訪れましたら幸いです。 (引用ここから)

太刀の雪 (講談社吉川英治歴史文庫38 「三国志」(六)484-485ページ) 北方謙三  細い刀背(みね)から鍔(つば)にかけて、微かに雪がつもるほど動かずに……。


 三十三間堂における、武蔵と吉岡伝七郎の決闘。その時の、武蔵の太刀の描写である。正眼に構え合った二人の、柔と剛。伝七郎の腕にはめりめりと音をたてそうな力が見え、武蔵の腕は押すと動きそうなほど柔らかく見える。そして、雪の、徐、破、急。武蔵の太刀の刀背から雪が落ちた時、背後から迫った太田黒兵助とともに、吉岡伝七郎は朱(あけ)に染っている。


 なんという、張りつめた静寂であろう。読む者を、刀背に雪をつもらせたままの太刀が、すでに斬っている。そのあとにくる、一瞬の動。まさに、読者は二度斬られると言っていいだろう。


 はじめて『宮本武蔵』を読んだ時から、刀背に雪をつもらせた太刀は、ぼくの頭に焼きついていた。


 真剣による決闘シーンは、日本文学における個と個の闘争描写の源流ではないのだろうか。少なくとも、現代を舞台にハードボイルド小説を書いているぼくには、闘争描写の原点があると思えるのである。


 拳銃が一般的なリアリティを持たない日本では、肉体と肉体のぶつかり合いで、拳銃の迫力を凌ぐしか方法がない。だから、闘争場面には、いつも細心の注意を払って書いている。痛み、血、敗北感。そういうものの描写が、とりたてて難しいとは思わない。


 難しいのは、動きなのだ。主人公が一歩踏み出す。その一歩に、どれだけの迫力を与えられるか。下手をすれば、ボクシングの観戦記のようになってしまう。ぼくは、肉体のぶつかり合いを書くときは必ずと言っていいほど、刀背に雪をつもらせた太刀を思い浮かべる。動には、絶対的に『静』が必要なのだ、と教えられたことで、三十三間堂の決闘は、数多ある闘争シーンの中で、ぼくにとっては特別なものになっているのである。


(引用終わり)


 写経に触れたついでに、般若心経で特に好きなアレンジ(ロックバージョン)のリンクを貼りました。特に深い意味はありまん。https://www.youtube.com/watch?v=t0s3L1xvymE


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